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2006-05-16 Tue 23:54
「ていねいに生きる」片山清司氏(観世流能楽師)
-2006年5月16日(水)京都新聞 夕刊 「現代のことば」より- 抜粋 -初めての「定家」をやり終えて思うのは、 まさに「ていねいに生きる」ことに尽きるということです。 しみじみと人に訴えかけるためにしなくてはならないのは、 人に自分の演出意図をわからせることではなく、 自分がさまざまな局面で誠実に生き抜くことしかないのではないか。 たとえ、それが現実の世界とは違う舞台の上の物語の世界であっても- この記事を目にした時 例えば 日常の 食うための仕事に従事している人にも 充分当てはまるのではないかと思い 何度も読み返した 勿論 何のホスピタリティも持ちえず 人との関わりに頓着せず 日々業務 日々作業 と念じて働くことが可能で それで納得ずくの人には そもそも何ら当てはまらないことかもしれない けれど 人に何かを伝えたい 人と関わって楽しく気持ちよく仕事をしたい 食うための仕事であってもそう思っている人であるならば 少し心に届くお話ではないかと思ってとりあげてみた 「ていねいに生きる」 その言葉自体 美しい響きだと思う 「ていねいに生きる」 その言葉の印象自体 優しい感じがする |
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2006-02-27 Mon 23:04
追悼 茨木のり子 さん
もし まだこの詩に出会えていない人がいるならば 伝えたい この素晴らしい詩がもたらされる前の自分が そこにいるような気がするから 「自分の感受性くらい」 ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわ志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 「知命」 他のひとがやってきて この小包の紐 どうしたら ほどけるかしらと言う 他の人がやってきては こんがらがった糸の束 なんとかしてよ と言う 鋏で切れいと進言するが 肯(がえん)じない 仕方なく手伝う もそもそと 生きてるよしみに こういうのが生きてるってことの おおよそか それにしてもあんまりな まきこまれ ふりまわされ くたびれはてて ある日 卒然と悟らされる もしかしたら たぶんそう 沢山のやさしい手が添えられたのだ 一人で処理してきたと思っている わたくしの幾つかの結節点にも 今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで 「汲む ―Y・Yに―」 大人になるというのは すれっからしになることだと 思い込んでいた少女の頃 立居振舞の美しい 発音の正確な 素敵な女のひとと会いました そのひとは私の背のびを見すかしたように なにげない話に言いました 初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人とも思わなくなったとき 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました 私はどきんとし そして深く悟りました 大人になってもどぎまぎしたっていいんだな ぎこちない挨拶 醜く赤くなる 失語症 なめらかでないしぐさ 子供の悪態にさえ傷ついてしまう 頼りない生牡蠣のような感受性 それらを鍛える必要は少しもなかったのだな 年老いても咲きたての薔薇 柔らかく 外にむかってひらかれるのこそ難しい あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には 震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・ わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました たちかえり 今もときどきその意味を ひっそり汲むことがあるのです 〜茨木のり子「自分の感受性くらい」おんなのことば 童話屋 より〜 |





